米国の会社役員賠償責任保険(D&O保険)の保険料率が長期間に渡り上昇している。主な要因にはM&A訴訟などの証券クラスアクションの増加がある。また、ダイバーシティ、サイバーセキュリティ、気候変動など企業経営に関わる新たなリスクも顕在化してきた。本稿では、米国D&O保険市場で注目される近年の訴訟動向やリスクの変化について概括する。
1.米国D&O保険市場のハード化と証券クラスアクションの増加
(1)保険市場の状況
(出典)The Council of Insurance Agents &Brokers, “Commercial Property / Casualty Market Index Q4/2020”より当研究所作成
《図表1》は、2018年1Q以降の米国D&O保険料の平均上昇率の推移を示したものである1 。2018年は1%程度の上昇率であったがその後ハード化が進み、2020年2Qには保険料上昇率は16.8%に達した。それ以降も依然として高い水準で推移している。
長期化する保険料率上昇の影響で、企業の保険手配にも影響が出ている。Marshによると、2020年4Q中の保険契約更改において、95%の保険契約者の保険料が上昇し、15%の保険契約者は保険金額が減少した2 。免責金額(自己負担額)の引上げや保険金額の削減など補償条件の見直しを余儀なくされる場合も少なくないようだ3 。
(2)証券クラスアクションの件数
(出典)CORNERSTONE RESEARCH, “Securities Class Action Filings2020Year in Review”より当研究所作成
米国のD&O保険では株主代表訴訟に加え、上場企業およびその役員を対象とする連邦証券法および州証券法に基づく訴訟(以下「証券訴訟」。集団訴訟の形態をとるものが多く、これを「証券クラスアクション」という。)による損害賠償金、弁護士費用等を補償の対象とするものが多い4 。米国のD&O保険料率上昇の主な要因は、証券訴訟の件数増加に伴う訴訟費用の増加にあるとされている。《図表2》5 は、証券クラスアクションの件数推移を示したものである。
証券クラスアクションの件数増は、株主がM&Aの差し止めを求める訴訟(以下「M&A訴訟」)の増加が影響している。M&A訴訟は、M&Aに関わる情報開示がなされたらすぐに提起されることが多く、買収価格や合併比率に対する不満やM&Aに関する情報開示が不十分であること等を理由に株主から訴えを起こされる。集団訴訟を手掛ける弁護士が主導する訴訟が多く、Cornerstone Researchが2019年に公表したレポートによると、買収金額が1億ドル以上のM&Aのうち、82%がM&A訴訟を提起されている6 。また、2017年における和解額の中央値は600万ドルであったが、2018年以降は和解額の中央値が1,300万ドルとなっている7 。
M&A訴訟を除く証券クラスアクションでは、企業の情報開示に関連するもの(財務書類の不実表示、SEC規則10b-5違反8 、虚偽の将来予測に関する開示)が大半を占めている9 。
2.企業経営に求められる新たな責任とリスク
米国D&O保険市場では、M&A訴訟等による証券クラスアクションの増加の他、株主代表訴訟や証券クラスアクションにおいて近年新たにみられる訴因やリスクが注視されている。
(1)ダイバーシティ
米国では、企業の人種的ダイバーシティの改善に対する要請が高まっており、取組が不十分な企業の取締役に対して株主代表訴訟が提起されている10 。代表的な事例として、Oracleの取締役に対する、取締役会の人種的ダイバーシティが確保できていなかったことによる企業価値の毀損を理由とする株主代表訴訟11 を紹介する。同社は、2019年に公表した文書おいて、従業員の多様性と包摂は経営トップから始まるとしていたが、取締役にはアフリカ系やラテン系のアメリカ人はおらず、Vishal Sikka氏12 を除きアジア系アメリカ人やその他のマイノリティが存在しなかった。公表文書と実態が乖離し、株主に誤解を与えたとされ、訴訟では3名の役員を退任させ、2名はアフリカ系アメリカ人、残りの1名はその他人種的マイノリティ層の役員を選任すること、役員報酬の返上、人種的マイノリティの雇用の数値目標の設定などが求められた。Oracle以外にも、FacebookやQualcommなどに対しても人種的ダイバーシティの改善を求める訴訟が提起されており13 、今後の企業の対応や株主などのステークホルダーの動向が注目されている。
(2)サイバーセキュリティ
ITの利活用は企業の収益性向上に不可欠なものとなっている一方で、企業が保有する顧客の個人情報や重要な技術情報等を狙うサイバー攻撃は増加し、巧妙化している。企業戦略として、ITに対する投資やセキュリティに対する投資等をどの程度行うかなど経営者による判断の重要性がより高まっている。
企業のサイバーセキュリティ対策と情報開示で注目された事案として、2020年10月に提起された金融サービスグループであるCapital One Financial Corporationに対する証券クラスアクションがある18 。2019年、外部からハッキングを受け、約1億600万件の重要顧客データ(氏名、住所、銀行口座情報、社会保障番号など)が漏洩したことが判明した。Capital One Financial Corporationは、顧客の重要個人データを保護するための措置を講じておらず、公表文書の記載に実質的な誤りがあったと指摘されている。企業には自社の事業リスクを適切に評価・開示し、リスクに応じた内部統制を構築すること求められている19 。
(3)気候変動
市民やNGO団体、企業、地方政府などが原告となり、気候変動対策を実行しないことや気候変動リスクに関する情報の開示が不十分であること、一般市民の健康や生活に甚大な影響を与える気候変動に加担しているなどの理由により、企業や政府・行政機関に対して訴訟が提起されている。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスのグランサム研究所が2020年に公表した報告書20 によると、1986年から報告書発行時点までで気候変動関連の訴訟の76%が米国で提起されている。そのうち約80%が、連邦政府・州政府などの行政機関に対する訴訟であるが、企業に対する訴訟も増加傾向にある21 。企業に対する訴訟は、温室効果ガスを排出する企業に対する環境への悪影響を訴因とするものと気候変動に関わるリスクの開示が不十分であることを訴因とするものがある22 。気候変動が多くの企業の持続可能性に影響する重要問題となっており、企業および取締役に対して気候関連のリスクへの適切な対処や情報開示の要請が高まっている。
企業に対する気候変動リスクの情報開示に関する訴訟の代表的な事例として、総合エネルギー企業であるExxonMobilに対する訴訟がある。2019年10月、マサチューセッツ州司法長官が、同社の気候変動に関わるリスクを開示しなかったとして訴訟を提起した23 。また、ExxonMobilの取締役に対し、同社がビジネスに関する気候変動リスクについて株主に誤解を与えたとして、複数の株主代表訴訟が提起されている。
3.おわりに
本稿では、ハード化が進む米国D&O保険市場の状況とその背景にある証券クラスアクションの増加、また企業経営に関わる新たなリスクとしてダイバーシティ、サイバーセキュリティ、気候変動等に関する訴訟の動向について紹介した。米国では、証券クラスアクションや株主代表訴訟を手掛ける弁護士が成功報酬型で株主に呼びかけて起こす訴訟が多く、企業経営に関わる新たな責任やリスクが訴訟となって顕在化している。実効性を伴わないリスク評価や情報開示は企業の信頼を損ねるだけでなく、訴訟リスクを惹起することは明らかである。企業および役員には、ダイバーシティや気候変動などの要請に的確に対応し、コミットメントなど社会からの厳しい目線に応えていく必要があるだろう。
The Council of Insurance Agents&Brokers(保険代理店およびブローカー審議会)が四半期毎に公表している。
MARSH, “Global Insurance Prices: 13 Consecutive Quarters of Increase”, Feb 2021.
Harvard Law School Forum on Corporate Governance, “Challenging Times: The Hardening D&O Insurance Market”, Jan 29, 2020.
証券訴訟による企業の責任は、D&O保険のSideCカバーの対象とされる。
《図表 2》におけるM&A訴訟の件数は、連邦証券法におけるM&A訴訟のみが含まれており、州証券法におけるM&A訴訟の件数は含まれていない。
CORNERSTONE RESEARCH, “Shareholder Litigation Involving Acquisition of Public Companies Review of 2018 M&A Litigation”, Sep 17, 2019
NERA ECONOMIC CONSULTING, “Recent Trends in Securities Class Action Litigation: 2020 Full-Year Review”, Jan 25, 2021.
米国証券取引委員会(SEC:Securities and Exchange Commission)が規定した規則。詐欺を働くための策略等を用いる こと、重要な事実について不実表示すること、または誤解を避けるために必要となる重要な事実の表示をしないこと、詐欺もしくはその恐れのある行為等を禁止している。
CORNERSTONE RESEARCH, “Securities Class Action Filings 2020 Year in Review”, Feb 3, 2021.
Woodruff Sawyer, “INSIGHTS Corporate Diversity Disclosures and Board Accountability”, Jul 29, 2020.
RANDRE KLEIN, derivatively on behalf of ORACLE CORPORATION and ORACLE AMERICA, INC., vs. ORACLE CORPORATION and ORACLE AMERICA, INC.,
Vishal Sikka氏は、インド出身で、AIスタートアップ企業のVianai Systemsの創業者兼CEOである。Vianai Systemを創業する前は、SAPの経営幹部、InfosysのCEOを歴任し、2019年12月からOracleの取締役を務めている。
前脚注10
STATE OF CALIFORNIA, “Senate Bill No. 826”
STATE OF CALIFORNIA, “Assembly Bill No.979”
人種的マイノリティを「黒人、アフリカ系アメリカ人、ヒスパニック系、ラテン系、アジア系、太平洋諸島系、ネイティブ・アメリカン、ハワイ先住民もしくはアラスカ先住民であると自ら認識しているか、または、LGBTを自ら自認している個人」と定義している。
Harvard Law School Forum on Corporate Governance, “States are Leading the Charge to Corporate Boards: Diversity!”, May 12, 2020.
MARCUS MINSKY, Individually and On Behalf of All Others Similarly Situated, Plaintiff, v. CAPITAL ONE FINANCIAL CORPORATION, RICHARD FAIRBANK, and R. SCOTT BLACKLEY, 19 Allianz Global Corporate & Specialty SE, “DIRECTORS AND OFFICERS (D&O) INSURANCE INSIGHT 2021”, Dec, 2020.
Allianz Global Corporate & Specialty SE, “DIRECTORS AND OFFICERS (D&O) INSURANCE INSIGHT 2021”, Dec,2020.
Joana Setzer and Rebecca Byrnes, “Global trends in climate change litigation: 2020 snapshot”, Jul 3, 2020.
Benjamin Berringer, “Securities-Based Climate Litigation in the United States: What is the Status?”, May 4, 2020.
CLIFFORD CHANCE, “CLIMATE CHANGE LITIGATION TACKLING CLIMATE CHANGE THROUGH THE COURTS”, Oct, 2019
COMMONWEAKTH OF MASSACHUSETTS v. EXXON MOBIL CORPORATION
Stanford Law School Securities Class Action Clearinghouseのウェブサイト(visited Apr 5, 2021)https://securities.stanford.edu/current-topics.html#collapse1