データ取引市場とは、信頼に足る事業者によって運営されるデータ取引の開かれた場である。証券取引所で多様な株式が市場参加者によって売買されるように、データ取引所では企業や自治体が保有するデータを利用者が購入することができる(図表 1)2。
データ取引所の現状と課題
1.はじめに
1990年代以降、インターネットや携帯電話、スマートフォンの普及、IoT(Internet of Things:モノのインターネット)の利用拡大を背景に、デジタルデータは爆発的に増大した。同時に、ビッグデータを処理・分析するための手法や演算機能も急速な発展を遂げ、データから様々な知見を得られるようになった。
こうした背景から、「データは国際競争力の源泉」という認識が共有され、世界各国はデータ戦略を策定し強力に推進している。日本では、これまでデータ戦略の全体像が長らく示されていなかったが、2021年6月に「包括的データ戦略」が公表され1、世界トップレベルのデジタル国家を目指すために必要なデータ流通の環境整備やルールについての具体策が打ち出された。
包括的データ戦略において、とりわけ世間の注目を集めたのが「データ取引市場」構想である。データ取引市場には、個々の企業や自治体に存在するデータを広範に流通させ、データ利用を促す役割が期待されている。本稿では、データ取引市場の概要と国内外の取り組みを紹介し、今後の見通しを示す。
2.データ取引市場
(1)データ取引所の概要とメリット
データ取引市場でデータを売買するメリットとして、第一に取引の効率化が挙げられる。データ取引市場を介することで、取引相手の発見が容易、取引方法の標準化といった点で取引コストが大きく削減される。第二に、中長期的には価格発見機能の発揮3が期待できる。市場の黎明期においては取引実績が少なく、売り手と買い手の希望価格に乖離が見られる可能性があるが、事例が蓄積されるにつれてデータ取引市場の効率性や安定性が向上する。価格発見機能がはたらいている市場においては、販売額の見通しが立てやすいことからデータ保有者の新規参入が促進されるといった経路を通じて流動性が高まり、市場の安定化、効率化が進展するという好循環が生まれる。
(2)具備すべき要件
では、データ取引市場が具備すべき要件にはどのようなものがあるだろうか。データ取引市場では、面識や既存の取引がない相手との売買が想定されるため、運営事業者には単に取引を最適化するだけでなく、仲介によってデータ自体や契約に関する信頼性・公正性を担保する役割が求められる。したがって、利用者保護や、健全で利便性の高い市場の育成という観点から、運営事業者に対しては一定の要件が求められる。具体的な要件については、政府のデータ戦略の実行運営組織である「データ社会推進協議会4」が公表している「データ取引市場運営事業者認定基準」5が参考になる。この認定基準では、中立性、透明性、公正性、安全性、法令順守の5原則のもとに、運営事業者が満たすべき基準として体制の整備、データの提供者・提供先との間の約款の策定・公表、データ取引に関するルール策定といった要件が定められている(図表 2)。
加えて、データが持つ「複製が容易」という特性を考慮する必要がある。株式や債券は売買の結果として売り手から買い手に所有権が移転するのに対し、データは取引後に売り手と買い手の双方がデータを保有し、買い手による二次流通によって際限なくデータが増殖する可能性がある。そのため、データを利用する権利やデータの原本性を保証する仕組みが必要とされる。
この問題について、世界経済フォーラム第四次産業革命日本センターのプロジェクト戦略責任者を務める工藤郁子氏へのヒアリングでは、民間のユースケースを通じてデータ取引市場に参加するプレイヤーが順守すべきガイドラインを整備し、予測可能性を高めることから進めるべきだと指摘する。例えば、データの購入について、用途やデータへのアクセス権をどこまで認めるかという点などを検討する必要があるという。また、データ取引市場では、証券取引市場と同様に国内のデータが国外居住者に販売されることも予想されるため、個人情報や経済安全保障に係るデータについての規定は明確でなく、今後の要件付けが課題であるとしている。
データ社会流通協議会専務理事・事務局長の眞野浩氏へのヒアリングでは、データ主権を確立するための新しい権利である「データ利用権」を定めるべきという主張があった。既存の著作権や特許権などの権利概念ではデータ全般に適用することができないため、データの利活用という観点に立脚した「データ利用権」を制定し、閲覧や保管、販売・譲渡、複製・加工などについて権利関係の明確化を提唱している。この権利がユニークなのは、データ取引所において提供者・利用者双方の権利義務が明記された「権利証書」をデータに紐づけて交付する点である。権利証書には、対象となるデータセット、提供期間、利用の範囲や用途などが規定され、購入者はデータの排他的な利用権を得ることができる。権利証書は裏書譲渡も可能であり、所有権の来歴も確認できるという。
(3)先行事例
国内の先行事例として、エブリセンスジャパン社が提供するデータ取引プラットフォーム「EverySensePro」を紹介する。提供されるデータの種類や参加企業の属性は限定されておらず、提供者と購入希望者がマッチングした場合はプラットフォーム上で価格決定・売買取引が行われる。エブリセンスは、取引の場を提供する役割のみに徹しており、公平性・中立性の観点から価格決定などには関与を行わない。現在は、全国のエアコン設定温度データ、公衆Wi-Fiから取得されるスマホ端末データ、家電の電力消費量データをはじめとした約300種類のデータが売買されている。
このプラットフォームにおいては、データ提供者が希望販売価格を事前に設定し、購入者と交渉後に合意が行われるため証券取引所のように時々刻々と価格が変動するものではない。しかしながら、取引量が増加し流動性が高まることで将来的には価格発見機能の向上による市場の効率化が期待される。
3.国内外の動向
(1)日本
日本では、2017年4月に経済産業省と総務省、民間団体「IoT 推進コンソーシアム」が、データ流通プラットフォーム間の連携を実現するための基本的事項を示した9。複数のデータ流通プラットフォームから利用したいデータを一元的に検索可能なデータ流通基盤を構築するためにデータカタログ10の標準化やAPIの整備などの最低限共通化が必要な領域において協調の必要性が提言された。
並行して2017年6月には、総務省がデータ取引市場について取りまとめを公表した11。そこでは、取引市場に関するルールが不確定であることから、参加するプレイヤーや運営事業者に要求される要件や、民間による実態に即したルール形成への期待などが議論された。
こうした一連の取りまとめを経て、データ流通推進母体としてデータ社会推進協議会の前身であるデータ流通推進協議会が2017年11月に設立され、2018年9月に運営事業者認定基準が公表された。
足元では、2021年6月に閣議決定された「包括的データ戦略」のもと、デジタル庁主導で分野を超えたデータ連携をめざすプラットフォーム「DATA-EX」の整備、取引所・ブローカーが持つべき機能と責任の整理など、アーキテクチャやルールの検討が進められている。
(2)EU
欧州では、フランスとドイツが中心となり2020年6月にデータ基盤プロジェクト「GAIA-X」が発足し、EUの行政執行機関である欧州理事会とも連携が進められている。GAIA-Xの特徴は、ルールとシステムとエコシステム(データ経済圏)を一体的に整備する点にある。ルール面では、データ取引の信頼性を担保するために、データ仲介者を規制する「Data Governance Act」の提案や、企業間や企業・行政間の公正なデータ共有に関する「Data Act」が提案され、データ契約の整備が進められている。システム面では、データの開示や利用権限を制御するツールの提供も推進され、データ流通を業界で横断して容易に行える標準・認証の仕組みが構築されつつある。こうしたルールやシステムの整備と並行して、エコシステムの形成が目指されており、データ取引所はエコシステム形成を加速させる役割として位置づけられている。
2021年11月には、データ・ガバナンス規則案(Data Governance Act)がEU理事会(閣僚理事会)と欧州議会で政治合意された。規則案では、データ連携サービス事業者を新たに定義し、その届出を義務付けることで、当局による監督の円滑化が見込まれている。
(3)中国
中国では、2001年にビッグデータを取引可能なプラットフォームが創設されるなど取り組みが先行している12。2014年から政府としてビッグデータ推進政策が本格化し、矢継ぎ早にビッグデータを活用する指針が示された。例えば、2016年1月のビッグデータ発展の重大なプロジェクトの実施・促進に関する通知」において、ビッグデータ取引プラットフォームの設立や関連制度の整備等に対し、国家が重点的に支援をすると表明した13。こうした政府の後押しを受けてデータ取引所の開設が相次ぎ、現在は10以上の取引所で金融・エネルギー・モビリティ・ヘルスケアなどのデータが取引されているほか、一部の取引所ではデータの前処理(クレンジング)、加工・分析や品質評価まで行われている。2021年3月には北京国際ビッグデータ取引所が開設され、中国国内のデジタル経済促進に加えて、全世界のデータハブとしての役割が期待されている14。
(4)国際的な動向
各国でデータ戦略が策定されている中、世界経済フォーラムとその関連組織である第四次産業革命センターはグローバルな取組を進めている。
世界経済フォーラムは2020年に「DCPI(Data for Common Purpose Initiative)」と呼ばれるグローバル・イニシアティブを打ち出し、データエコシステム構築に向けた調査・提言を行っている。DCPIの目的はデータ取引を活性化させ、公的利益と取引当事者の利益を最大化することであり、主に各国に配置された第四次革命センターが連携し、データ取引市場の実現可能性や主要技術に関する研究が進展している。
世界経済フォーラム第四次産業革命日本センターでは、2020年12月にデータ市場の活性化に関するダイアログを開始した。ダイアログには官民学の専門家が参加し、2021年8月には取引市場の運営事業者の果たすべき役割や責任などのガバナンス構造に焦点を当てた提言書を公表している15。さらには、各国センターの取組紹介をはじめとする情報発信も精力的に行われており、先述した包括的データ戦略でもその活動が触れられている。
第四次産業革命コロンビアセンターでは、2020年にデータ取引市場のモデルのコンセプト化が開始され、コロンビア政府をはじめとした多様なステークホルダーを巻き込んで実証が行われた。この実証実験ではプライバシーや流通基盤に加えて、データの価値評価についても焦点があてられた。公表された白書によると、CO2排出ネットゼロなどの複雑な課題に対する政策決定には官民データの利活用が必要な点、透明性の高いデータ流通基盤の実現によって国民からの信頼を勝ち取ることができる点、などが明らかになった16。
世界経済フォーラムによってノルウェーに設置されたHUB Ocean17では、海運に関するオープンデータや企業間、企業・政府間データを利用したCO2排出量分析システムの開発・提供を行っている18。世界中を航行する25万隻の船舶による1時間間隔のCO2排出量モニタリングや複数のルートオプションでの運行効率の分析が可能であり、これまで進んでいなかった海洋に関するデータ共有を進展させている。
4.おわりに
各国でデータ取引市場の研究や実証が進められており、データ取引所を開設する流れは加速していくと考えられる。一方で、データの越境取引問題や個人情報、セキュリティといったソフト面の課題や定義すべき要件は多く残っており、多くのステークホルダーの間で今後も息の長い議論が展開されるだろう。
日本では、データ共有の機運は高まりつつあるが十分に流通が進んでいるとは言い難い。データは流通によって公益に資する公共財としての側面と、企業にとって競争力の源泉という側面を併せ持つ。このギャップを埋めるのがデータ取引市場であり、データ流通にインセンティブを付与することで利用の活性化が期待される。日本もユースケースを通じて諸般の課題に対して深く議論を進める必要があり、例えば機運が高まっているグリーン関連のデータ共有は賛同を得やすい領域ではないだろうか。
グローバルな視座では、データ利用に関する要件が各国・各地域で異なるという課題がある。データ取引所の原点である多くの参加者による流動性の高い取引を実現するためには、各データ取引市場で一定の標準化や相互運用性の確保が必要となろう。特に気候変動などの地球規模の問題に対処するために、今後は国境を越えた円滑なデータの利活用が求められる。利便性や取り扱うデータ数などの競争領域ではしのぎを削りつつも、共通部分では各国が協調することでデータの便益を広く享受できるような枠組みの構築を期待したい。
- 内閣官房「包括的データ戦略」(2021 年 6 月)
- 参入資格審査の容易性などの観点から、現時点では B2B 取引が念頭に置かれているが、市場が成熟してきた暁には、個人投資家のような存在を許容も考えられる。
- 需給を反映した価格を形成する機能のこと
- デジタル庁が推進予定の「包括的データ戦略」や「内閣府・戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)」の後押しを受け、産官学の連携により分野を超えた公正、自由なデータ流通と利活⽤による豊かな社会を実現するために設立された団体
- データ社会推進協議会「データ取引市場運営事業者認定基準_D2.0」(2018 年 8 月 23 日)
- 札幌市「令和 4 年度予算の概要」(2022 年 2 月 15 日)
- DATA – SMART CITY SAPPORO
https://data.pf-sapporo.jp/ - 北海道新聞「官民データを活用 市、取引所開設へ」(2022 年 2 月 8 日)
- IoT 推進コンソーシアム、総務省、経済産業省「データ流通プラットフォーム間の連携を実現するための基本的事項」(2017 年 4 月)
- 各データの発生元や定義などの情報を一覧にしたもの。
- 総務省「データ取引市場等サブワーキンググループ取りまとめ(案)」(2017 年 6 月)
- 日立コンサルティング「中国・韓国におけるビッグデータ流通プラットフォーム」(2020 年 6 月 30 日)
- 野村資本市場研究所「データ駆動型社会と中国におけるビッグデータ取引所」(2016 年)
- China Daily, “Big data exchange to aid China’s digital drive”, Apr 1, 2021
- World Economic Forum, “Developing a Responsible and Well-designed Governance Structure for Data Marketplaces”,Aug 2021
- World Economic Forum, “Data for Common Purpose: Enabling Colombia’s Transition to a Data-Driven Economy”, Dec2021
- 前身は第四次産業革命オーシャンセンターであり、2022 年 2 月に名称変更
- HUB Ocean (visited Mar.25, 2022)
https://www.hubocean.earth/c4ir-ocean-projects/ship-emissions-tracking
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