リテンション対策としてのファイナンシャル・ウェルネス向上
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1. 「ファイナンシャル・ウェルネス」向上に向けて
働く人の資産形成のための取組みや情報開示の重要性が増しており、「ファイナンシャル・ウェルネス」という概念が注目されている1。
米国の消費者金融保護局(Consumer Financial Protection Bureau、CFPB)の定義によると、「ファイナンシャル・ウェルネス」とは「現在および継続的に経済的義務を果たすことができ、将来の経済的安心感があり、人生を楽しむための選択ができる状態」とされる2。つまり、日々の家計管理や緊急時の備えをしながら、将来のライフプランに応じて人生を楽しむことができる状態と捉えることができるだろう3。
「ファイナンシャル・ウェルネス」の概念は米国など海外を中心に普及してきたものである。米国従業員の多くが金銭的な課題に直面し、メンタル不調などの健康問題によって企業の生産性に影響を及ぼしていたことが米国で普及してきた背景だという4。
バンク・オブ・アメリカが米国従業員を対象にした調査結果によると、2024年に「ファイナンシャル・ウェルネス」が良好であると回答した米国従業員は47%で、2023年の42%から徐々に改善している5。しかし、逆に言えば、いまだ5割以上の人が「ファイナンシャル・ウェルネス」が良好ではないということでもある。実際に、近年のインフレによる物価上昇を背景に、76%の米国従業員は生活費が給与を上回る懸念を示しており、66%が家計に対するストレスを感じている6。日本でも物価上昇が続いており生活費の高騰によって、日々の家計管理に対する懸念やストレスを抱えている人もいるだろう7。
日本では少子高齢化によって、高齢者を支える現役世代が減少している。厚生労働省が2024年7月に、公的年金の給付水準に関する見通しを公表し、現役世代の手取り平均収入に対する年金の給付水準(所得代替率)が、経済成長が横ばいのケースでは、2057年度には50.4%となり、2024年度比で約2割低下するとの見通しを示した8。5年前の財政検証の見通しよりは改善がみられたものの、老後の生活費を公的年金だけに頼ることが難しくなる可能性は考えておく必要はあるだろう9。
さらに、男女ともに平均寿命が延びることで、2070年には女性が91.94歳、男性が85.89歳になると予想されており、老後の資金を長期にわたり確保する必要にも迫られている10。
SOMPO ホールディングス株式会社の調査によると、円預貯金以外の資産形成をしている人のうち、7割以上が「老後資金の形成」を目的としており、老後の資金確保の必要性を認識していることがわかる《図表1》。しかし、働く個人が金融リテラシーを身につけ将来に備えていくためには、企業側の支援も不可欠だ。2024年春の賃上げは大企業を中心に33年ぶりとなる高水準となったが、従業員の「ファイナンシャル・ウェルネス」の支援において重要なことはそれだけではない。個人のライフスタイルが多様化するなか、将来に備えた資産形成や退職後の備えをすることのできる取組みも大切である。
2. 企業が従業員の「ファイナンシャル・ウェルネス」に取組む意義
それでは、企業が、なぜ従業員の「ファイナンシャル・ウェルネス」向上に取組む必要性があるのか、その意義について考えてみたい。
企業が従業員の資産形成を支援する取組みの必要性は、政府の「資産所得倍増プラン」の「第四の柱:雇用者に対する資産形成の強化」において言及されている11。従業員の資産形成を後押しすることで、家計の金融資産が増加し、企業の成長投資の原資につながる。これが中長期的には企業価値の向上に寄与し、家計の金融資産や所得が拡大するという好循環の実現を目指すものである。
同プランでは「企業による雇用者の資産形成の強化は(中略)『人的資本可視化指針』に示したとおり従業員エンゲージメントの向上にも効果的であり、『人的資本可視化指針』も活用し、雇用者の資産形成を支援する取組を積極的に情報開示するように企業に促していく」と明記されている。同指針では、従業員エンゲージメントに関連する開示事項の例として、「ファインナンシャル・ウェルネス」の事例が記載されるなど、投資家などを中心としたステークホルダーに対する情報開示の観点からも企業が従業員の資産形成の支援に取組む必要性が増している12。
さらに、PwC が実施した米国従業員に対する調査を見てみると、経済的ストレスを感じている従業員の方が、感じていない従業員に比べて、エンゲージメントに関する全ての項目が低い割合を示していることがわかる≪図表2≫。
エンゲージメントの概念には、仕事に対する活力や熱意、没頭している状態を表す「ワーク・エンゲージメント」と組織に対する愛着やコミットメントなどを表す「従業員エンゲージメント」の2種類あると言われている13。《図表2》の結果について、後者の「従業員エンゲージメント」の観点から考えてみると、経済的ストレスがあることで、従業員の組織コミットメントが低下することは離職意向にもつながり得るため、人材の流出を防ぎたい企業にとっては見過ごせない課題だ14。
3. リテンション対策として考えるべき「ファイナンシャル・ウェルネス」の取組み
そのため、企業は従業員エンゲージメントの向上だけではなく、人材をつなぎ留めるリテンション対策の観点からも「ファイナンシャル・ウェルネス」の取組みについて考えていく必要がある。それでは、どのような取組みが効果的なのだろうか。
「ファイナンシャル・ウェルネス」向上の観点から見た企業の施策には、財形貯蓄(一般財形や年金財形、住宅財形)や企業型確定拠出年金(企業型DC)、確定給付企業年金(DB)、職場つみたてNISA、職場iDeco、従業員持株制度など様々あり、福利厚生の一環として導入する企業も少なくないだろう。
各制度の特徴はあるが、リテンション対策に寄与する観点から取り上げてみたいのが、従業員持株制度である。この制度は、従業員の経営参画意識を向上させることや安定株主の形成の観点から、従業員に自社株式を保有してもらう制度で、奨励金支給などとの組み合わせによって従業員の資産形成を支援するものだ。
従業員が株主の視点を持つことで、企業価値に配慮した行動を取ることを促すことも指摘されている15。つまり、従業員の企業価値向上への参画意識を高めながら、自社への貢献を通じて「ファイナンシャル・ウェルネス」向上にも資する取組みと捉えられる。この二つの側面から自社に対する組織コミットメントが高まり、リテンション効果が期待できるのはないだろうか。
実際、山本(2016)が海外の先行研究を調査した結果によれば、様々ある人的資源管理施策のうち、ほとんどの研究で「従業員持株制度」は退職率の低下に影響していたという16。
山本(2009)は、Buchko(1993)が米国従業員を対象にした分析結果をもとに、従業員持株制度における満足・コミットメントモデルをまとめている《図表3》。従業員持株制度の金銭的価値や株式所有に伴う経営の意思決定への影響の知覚が、持株制度への満足感や職務満足につながり、組織コミットメントの高まりを経て、退職意思の低下につながるというものだ。従業員にとっては、自社の株式を保有することで、企業の株価上昇による利益などが還元されるため、仕事の意欲や組織コミットメントも高まるのだろう。
近年、従業員持株制度の奨励金を拡充するなど「ファイナンシャル・ウェルネス」向上を支援する企業の取組み事例が見られる。いくつかの企業事例を見ると、従業員持株制度を導入する理由として、福利厚生の一環や安定株主の形成以外に、従業員の経営に対する関心や参画意識、仕事の意欲の向上のほか、企業の持続的発展や企業価値向上などを目的として記載する企業もある。
例えば、味の素株式会社は、人財資産への投資施策として、従業員持株会加入者(2023年6月1日時点)に対し、単元株式相当額を特別奨励金として支給している17。同社では「従業員の経営戦略への参画意識の向上に加え、従業員の中長期の自律的な財産形成にもつながる施策」と位置付けている18。
株式会社技研製作所は、「人的資本」に対する投資の一環として「従業員持株会」の奨励金の付与率を従来の5%から15%へ引き上げる19。これは、従業員の経営参画意識の向上やグループの持続的発展への期待もあるという20。
従業員持株制度以外にも、持株会を対象にした株式報酬制度も広がりつつある。例えば、株式会社アインホールディングスでは、持株会に加入する従業員を対象に、株式の株価上昇を還元する株式給付信託(従業員持株会処分型)の導入を行っている21。福利厚生の充実のほか、従業員の株価への意識や労働意欲を向上させるなど、企業価値向上を図ることが目的だという。これらの制度は、《図表3》で示したように、経営への参画意識が向上し、仕事の満足度を通じて組織のコミットメントにつながるため、企業のリテンション対策として有用な取組みと考えられる。
4.むすび
従業員が経済的ストレスを感じることは、エンゲージメントを低下させ、組織コミットメントの低下や離職意向にもつながりかねない。そのため、企業のリテンション対策の観点からも「ファイナンシャル・ウェルネス」向上のための取組みをおこなう意義は大きい。
従業員の「ファイナンシャル・ウェルネス」向上とリテンション対策の両面に資する取組みの選択肢には、本稿で取り上げた従業員持株制度や持株会加入者に対する株式給付信託の仕組み以外にもあるため22、これらの事例は一例に過ぎない。しかし、これらの取組みには、従業員が自社の経営に関心を持つことや企業価値向上への参画意識が高まるといった自社への貢献意欲を通じて組織コミットメントが高まる良さがあるだろう。
最近の調査によると、Z世代の学生が企業や職場を選ぶ際に用意してくれたら良いと思う研修として「資産形成・金融リテラシー研修」への関心度が高い。さらに、こうした研修を積極的に導入する企業に対して学生の志望度が高まるという23。
そのため、企業内の人材流出を防ぐだけではなく、優秀な人材を確保する観点からも「ファイナンシャル・ウェルネス」の取組みがますます重要になってくるだろう。従業員の「ファイナンシャル・ウェルネス」向上に資する取組みがより多くの企業で広がることを期待したい。
- 前野隆司・前野マドカ「ウェルビーイング」(日本経済新聞出版、2022年)は、「ウェルネスは身体の健康という面で使われることが多く、心の健康・幸せの場合を表す言葉としてはあまり使われていない」と指摘する。
- Consumer Financial Protection Bureau, “Financial well-being : The goal of financial education”, Jan. 27, 2015
- 脚注2同様。「ファイナンシャル・ウェルネス」には、以下4つの要素がある。①日々、月々の家計管理ができる②金銭的なショックを吸収できる③人生を楽しむ選択ができる経済的自由がある④人生設計の目標達成に向かっている
- 久司敏史「米国企業による健康増進・疾病予防の取り組みに関する動向~現状を象徴するトピックと日本の健康経営への示唆~」(損保ジャパン日本興亜総研レポート Vol.73、2018年)
- Bank of America, “2024 Workplace Benefits Report”
- 脚注5同様。
- PwC「グローバル従業員意識/職場環境調査『希望と不安』2023 日本・グローバル全体調査結果比較」(2023年7月27日)によると、「現在の財務状況をもっともよく表しているものはどれか」との設問の回答として、「私の世帯は毎月全ての請求書を支払うことができ、貯蓄、休暇、その他の費用に十分な余裕がある」と答えた日本の従業員の割合は、2022年の34%から2023年は30%に減少した。他方、「自分の世帯は毎月、全てまたは一部の請求書を支払うのに苦労している」や「自分の世帯はほとんどの場合請求書を支払うことができない」といった回答割合は増加している。
- 厚生労働省「令和6(2024)年財政検証結果の概要」一定の経済成長率が見込まれるケースでも、所得代替率は57.6%と2024年度比で6%低下となる。
- 脚注8同様
- 内閣府「令和6年版高齢社会白書」
- 新しい資本主義実現会議決定「資産所得倍増プラン」(2022年11月28日)では、「世界では、人々の幸福を目指すうえで心身の健康のみならず、企業を通じた経済的な安定を支援する取組が広まりつつある。我が国においても雇用主による雇用者の経済的な安定の向上に向けた取組を推進すること」が明記されている。
- 内閣官房「人的資本可視化指針」(2022年8月30日)
- SOMPO インスティチュート・プラス「エンゲージメントとは?」(2023年8月30日)
- 山本寛「人材定着のマネジメント -経営組織のリテンション研究」(中央経済社、2009年)によると、「リテンション」とは、一般に「保持」「保留」「継続」「引き留め」などを指すとされる。
- 大湾秀雄・加藤隆夫・宮島英昭「従業員持株会が生産性、賃金、および企業業績に与える影響」(JPX ワーキングペーパー Vol. 12、2016年3月28日)
- 山本寛「人手不足に対応する事後の人的資源管理─リテンション・マネジメントの観点から」(日本労働研究雑誌、No.673、2016 年)
- 味の素株式会社 ウェブサイト「2024年3月期業績予想および企業価値向上に向けた取組み」(2023年5月11日)
- 脚注17同様
- 株式会社技研製作所 ウェブサイト(visited June. 27, 2024)https://www.giken.com/ja/news/release/gkn24nw007ja/
- 脚注19同様
- 株式会社アインホールディングス ウェブサイト(visited June. 27, 2024)https://ssl4.eir-parts.net/doc/9627/tdnet/2418142/00.pdf
- 株式報酬制度の詳細については、一般社団法人 日本経済団体連合会「役員・従業員へのインセンティブ報酬制度の活用拡大に向けた提言」(2024年1月16日)にて整理されている。
- 金融庁「金融審議会 第26回 市場制度ワーキング・グループ・第6回 顧客本位タスクフォース合同会合(資料3-1 事務局説明資料)」(2024 年1月26日)
PDF:MB
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