クライメイト

イギリスの生物多様性ネットゲイン②
~改善の余地は大だが、ビジネス機会も広がる~

上級研究員 鈴木 大貴

前稿で解説したイギリスの生物多様性ネットゲイン(BNG)制度は、ネイチャーポジティブ(自然再興)の実現に向け、自然・生物多様性の保全・増進と開発の両立を目指す先駆的な取組みである。
  本稿では、BNGの現状と課題、派生する新たなビジネス機会を考察する。BNGは開発事業者のコスト増加、地方計画当局(LPA)のリソース不足、基準値・測定指標の妥当性など、様々な課題に直面している。しかしこれらの課題は同時に、生態系専門家の需要増加や、テクノロジー企業による支援サービスの展開といった新たなビジネス機会も生み出している。すでにスコットランド、ウェールズ、スウェーデン、シンガポールなどでBNGの類似制度が検討される中、世界に先駆けて導入されたBNGの成否は、さらなる拡大を睨み、今後の各国の自然・開発政策に多大な影響を与えると予想される。
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1.はじめに

イギリスは2024年2月以降、イングランドの土地開発計画に対し、開発前と比較して最低10%の生物多様性増加を義務付ける生物多様性ネットゲイン(Biodiversity Net Gain:BNG)1を順次施行している。前稿ではBNGの概要や意義について解説した。本稿では、その現状と課題、そして新たに生まれつつあるビジネス機会に焦点を当てる。BNGは世界的な生物多様性目標であるネイチャーポジティブ(自然再興)に向けた先駆的な具体策として期待される一方、施行前からコストや実効性への懸念も指摘されてきた。他方でこれらの課題は、新たな市場やビジネスチャンスを生み出す可能性も秘めている。

2.BNGの現状と課題

BNGは画期的だが複雑なスキームであり≪図表1≫、様々な課題も浮上している。例えば政府の支出監視機関である会計検査院(NAO)はBNGの長期的な実効性に関するリスクを指摘する2。また、政府に対する独立諮問機関であるグリーンファイナンス研究所(GFI)は、その成功に向けた40もの課題を挙げた(本稿末尾の≪参考図表1≫参照)。
  本項では、BNGの実施主体である開発事業者、管理・監督を担う地方計画当局(Local Planning Authority:LPA)3、そして制度設計の根幹である基準値・測定指標に分けて主な課題を解説する。
 

(1)開発事業者:コスト増加とオンサイト・オフサイトの選択

BNGは多くの開発事業者にとって新たなコストとなる。BNGの実施コストには、生物多様性評価、ハビタット創出・管理、モニタリング等が含まれる。政府はこれらを建設費や土地価格の0.1%から5%未満と見積もる一方4、実際には開発計画申請に係る詳細な土地管理・モニタリング・報告などの実施負荷や、LPAに対する申請料やモニタリング料、保証金といった費用も生じ得ることから、政府の影響評価ほど安価ではないとみられる。2024年末までの追加コスト負担額は、開発事業者全体で6,200万ポンド以上に上る可能性があるとの民間試算もある5

また、BNGは生物多様性ゲインヒエラルキー(BNG達成手段の優先順位付けルール)に従い、開発地(オンサイト)におけるハビタット6の創出・強化を第一順位とするものの、開発事業者は、次順位であるそれ以外の場所(オフサイト)での実施(所有地でのBNG実現または市場でのオフサイト生物多様性ユニット7購入)とも比較検討することになる8。オンサイト方式では、開発地内で直接的な生物多様性向上が期待できる一方、開発可能面積の減少や30年間以上の土地利用制限といった制約が伴う。対するオフサイト方式では、開発地内のプロジェクトの柔軟性は高まるものの、開発地から離れた場所で提供されるオフサイト生物多様性ユニットは減価される。開発事業者は、生物多様性ゲインヒエラルキーを大前提としつつも、これらの長所と短所を勘案しながら、最適な方法の選択が求められる≪図表2≫。
 

 
 なお、施行の初動段階では、開発事業者が適用除外規定を抜け穴として利用するBNG要件逃れの徴候がみられている。その結果、施行以降の開発計画申請全体のうちBNGの対象となったものは0.5%程度に留まっているとの指摘もある9。①最小規模要件と②カスタムビルド(個人による、0.5ha以下の土地での9戸以下の住宅建築)に対する適用除外が槍玉に挙げられており、NGOや企業のグループはその撤廃を求めている10

(2)LPA:準備・リソース不足と長期的実効性

要員・資金不足のLPAにとっても行政負担は大きい11。2022年の政府調査によると、生態学的リソースやBNG実施の専門知識等が十分と回答したLPAは10%未満に留まった12。また、公共部門縮小に伴う内部専門能力の喪失により民間の生態系専門家に依存せざるを得ない状況にある。こうした背景も要因となり、2024年4月現在、大多数のLPAが法的協定書(S106協定)13のテンプレートすら未整備であった14

会計検査院(NAO)は、LPAのBNG受入れ態勢に格差があることを指摘したうえで、その一因として政府からLPAに対する資金提供不足を挙げている。LPAへの支援を求める声は、グリーンファイナンス研究所(GFI)や環境保護団体、不動産業界団体等からも上がり、これを受けて政府は、当初の準備資金とは別途、LPAにさらなる資金提供を行った≪図表3≫。しかしそれでも、NAOはLPAの職務遂行能力に依然として疑問を呈している。
 

 
 また、LPAにとっての長期的課題としては、30年間以上にわたる強固なモニタリング・執行体制の構築が挙げられる15。LPAには約束されたBNG実現を確認するための要員が十分におらず、ハビタットの監督や正確な評価に必要な生態系専門家も不足している。モニタリングシステムが確立されていないがためにBNGにつながらない恐れのある生物多様性ユニットが27%存在する、と指摘した研究もある16

(3)基準値・測定指標

①10%BNGの妥当性

10%というBNGの基準値にも疑問の声が上がっている。自然保護団体はBNGの必須要件化を歓迎しつつも、20%以上への引上げを求めており、一部のLPAではすでに10%超の基準値が採用されている。自然保護団体のWildlife and Countryside Link(WCL)によると、イングランドに存在する317のLPAのうち、2024年2月現在で26(約8%)のLPAが10%を超える基準値の設定を検討している≪図表4≫17

また、BNGでは10%を超える達成分の他開発への利用や販売が認められているが18、これが実質的にBNGの上限を10%に制限するとして、自然保護団体は政府に余剰ユニットの売却防止を求めている。
 

②法定生物多様性指標の有効性

法定生物多様性指標(以下「法定指標」)の信頼性にも課題がある。法定指標は、生物種そのものではなく、その生息環境(ハビタット)の種類や状態を評価・採点したうえで、生物多様性価値を表す「生物多様性ユニット」として数値化する方式である。ハビタットの質が高ければ、そこに生息する生物の多様性も高いと推定する。

この法定指標について、ケンブリッジ大学の研究は、いくつかの問題点や改善策を提示している。第一に、法定指標は植物の多様性は適切に評価できているものの、鳥や蝶といった動物の生態系の複雑さを十分に反映していないとする19。第二に、ハビタットの評価だけでは、特定の生物種の維持に必要な要素を見落とす可能性等があるため、生物種に焦点を当てた追加的な保全管理の必要性を指摘している。そして第三に、農地管理方法による生態学的価値の違い20や特定種・ハビタットへの影響をBNG計算に含めるなど、指標の改善を提案している。ただし、法定指標の大幅な変更は当面難しい状況であり、また実用上はただ精緻化すればよいわけでもないと考えられる《BOX1》)。

                       《BOX1》優れた生物多様性指標とは何か?
 法定指標は、生物多様性評価の標準化を目指し10年かけて開発された21。GFIは、この過程で明らかになった、優れた生物多様性指標の要素を8つに集約している。しかし、これらの要素は時に相反する関係にある。例えば、使いやすさを重視すると科学的正確性が犠牲になる可能性がある≪図表5≫。
 

 
 シンプルで全国どこでも使える指標と、生態系の複雑さやハビタットの様々な要素をすべて把握する指標は両立しがたい。GFIは法定指標の精緻化を提言しているが、効果的な生物多様性指標の開発には、これらの要素間のバランスを慎重に取ることが求められる。さらに、BNGは現在のハビタットへの損害を、将来的なハビタットの成熟により創出・強化する約束でオフセットする(時間軸にずれがある)ものであり、その確実な実現も課題となる22
 なお、現在のBNGは建設資材の生産・加工・廃棄による影響を対象としていない。公認建築生産管理協会(CIOB)は、将来的には、開発のみならず、資材のライフサイクル全体を通じた生物多様性への影響も考慮すべきと主張している23。これは、温室効果ガス(GHG)排出量の算定でいうScope324や、自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)で議論されているバリューチェーン全体での影響評価に通じる考え方であり、今後検討を要する重要な課題と言える。

3.BNGがもたらすビジネス機会

BNG制度にまつわる課題は、同時に新たなビジネス機会をも生み出している≪図表6≫。
 

 
 本項では、BNGの直接的実施者と専門サービス提供者に分けて主な機会を検討する。

(1)直接的実施者

①開発事業者

開発事業者には、余剰生物多様性ユニットの販売という新たな収益機会が生まれる。また、一部の事業者は事業戦略として法定基準を超える目標を掲げ、BNGを自社あるいは物件のブランドイメージ強化や顧客満足度向上に積極的に活用している。商業施設開発最大手のLandsecは最低15%のBNG達成を25、また、最大の住宅事業者団体であるClarion Housing Groupも新たな自然回復戦略の一環として20%のBNG達成を、いずれもすべての新規開発において目指している26。さらにグレーター・マンチェスターのオフィスビル「Eden」は、35万本の植物による全面的な壁面緑化で2,000%以上のBNGを達成しており、環境配慮型建築物の象徴的事例となっている≪図表7≫。なお、建築事務所のStride Treglownは、生物多様性を最大化するための15の設計原則を視覚的に示した≪参考図表2≫。これらの原則は、高密度の都市開発においても生物多様性の向上が図れる可能性を示唆しており、開発事業者がこのようにBNGを考慮した設計を実践する際の参考となり得る。
 

②農家・土地所有者

土地所有者は、ハビタットバンク(前掲≪図表6≫(注)参照)の造成を通じてオフサイト生物多様性ユニットを販売できる。この市場は初期段階にあり不確実性が高いものの、将来的には年間1億3,500万ポンドから2億7,400万ポンド規模に成長する可能性がある。特に、従来は住宅開発が困難だった土地(氾濫原、送電線下、ガス地役権地など)も、オフサイト生物多様性ユニットの供給地として再評価される可能性がある。

また、オフサイトでのハビタット回復(湿地帯・野草地・森林地帯の造成・保護など)の多くは農地で行われることが見込まれる。転換期にある多くの農家にとって、BNGは開発自体を行わずに開発市場に参入する方法として、本業を補完する代替収入源となり得る。

例えばIford Estate農場は、農場内での開発が不可能な状況と、近年における農場経営収益の減少を踏まえた環境戦略として、BNG市場への参入を決断した。32haの土地から211のオフサイト生物多様性ユニットを創出し、すでにその大半の売却を予定している27

(2)専門サービス提供者

①生態系専門家

BNGの実施には生態系専門家の監修が必要である。具体的には、ベースライン生態学調査(開発地の生態学的特性と生物多様性を評価)やハビタット状態評価(生態系の健全性・質・全体的な状態を評価)など、専門的な評価が求められる。生態系専門家は、これらの評価に基づき、10%のBNGを達成するための具体的な方策を開発事業者などに提案する28

このような専門的サービスへの需要は官民双方で急増している。出足ではBNG逃れの徴候があるものの(前記2(1)参照)、年間約15万件と見込まれるBNGプロジェクトに対応するため、現状から40%の増員にあたる、4,000人から6,000人の追加人材が必要と推計されている29。この需要急増により、一部の生態系専門家の収入は過去1年間で3.5倍以上に増加した。生態学的責任の重要性が認識されるに伴い、生態学は建築や工学と並ぶ重要分野となりつつある30

②テクノロジー企業

BNGには専門家の関与と煩雑な手続きを要する。生態系専門家が不足する中で、その代替を商機とすべく、BNGプロセスの効率化・簡易化を目指す様々なソフトウェアソリューションが登場している≪図表8≫。特にAIと衛星技術を活用した高精度なハビタットマッピング(生態系の分布や状態を詳細に地図化すること)や生物多様性評価ツールが注目されている≪BOX2≫。
 

                       《BOX2》ハビタットマッピングの課題とAI・衛星ソリューションの可能性
BNGでは高精度のハビタットマッピングが不可欠である一方、人による現地調査に頼った作成には、以下のような多くの課題がある。
 
 ① 時間とコストがかかり、アクセス困難な地域では実施が不可能
 ② 広大な区域での正確な範囲推定が困難
 ③ 調査者の主観により結果に不一致が生じる
 ④ リソース制約下での大規模プロジェクトではデータの不整合が発生
 ⑤ 初期段階での誤差が最終的な測定精度に悪影響を及ぼす
 
 これらの課題を克服すべく、AIと衛星技術を活用した新しいアプローチが登場しており、①1mメッシュの高精度マッピング、②広範囲での正確かつ客観的な評価、③リアルタイムでの生態系変化の把握と効率的な更新などが可能となった31
 例えば国有企業のNational Highwaysは、自社が管理する約6,920kmに及ぶ高速道路・幹線道路周辺の生物多様性を、AIと衛星マッピングでモニタリングする計画を打ち出している。衛星画像を使って景観の種類と健全性を評価し、生物多様性のレベルを読み取るこのグリーンマッピングプロジェクトにより、2025年までに国道の利用に起因する自然衰退の阻止を目指している≪図表9≫。この例に代表されるような新技術を通じ、これまで困難だった大規模かつ正確なハビタット評価が可能となり、BNGの効果的な実施と生物多様性投資の精度向上が期待される。
 

 
 また、ハビタットバンクが生態学的に安定し、十分な生物多様性価値を持つ(成熟する)までには長期間を要する。3D制作会社のThe Ruby Cubeは、こうしたハビタットバンク造成の将来像をCGで視覚化するサービスを提供している≪図表10≫。開発事業者等は、生物多様性ゲイン計画の説明や開発計画許可の取得にこのCG画像を活用できる。

ハビタットバンクの運営事業を行うEnvironment Bankは、The Ruby Cubeが作成した将来ハビタットのCG画像を現地説明用の案内板に掲載し、サイトの生態学的特徴や野生生物種について周知すると同時に、土地所有者に既存のハビタットがポジティブに変化することを示した。また、マーケティングや事業開発、IR(投資家向けの広報)にも利用している32
 

4.おわりに

本稿では、イギリスの生物多様性ネットゲイン(BNG)制度に係る主な課題と、それに伴う新たなビジネス機会について以下の点を考察した。
 
 ① BNGは開発事業者に新たなコストをもたらす一方、余剰生物多様性ユニットの販売など新たな収益機会も創出している
 ② 地方計画当局(LPA)はリソース不足と長期的な実効性確保に課題を抱えている
 ③ 10%というBNG基準値の妥当性と現行の法定生物多様性指標の有効性に疑問が呈されている
 ④ BNGは生態系専門家やテクノロジー企業に新たな機会を提供している
 

昆明・モントリオール生物多様性枠組(KM-GBF)に基づくネイチャーポジティブ(自然再興)目標の達成には具体的な地域行動が不可欠であるが、その方法論は確立されていない。そうした中で、BNGは自然・生物多様性の保全・増進と経済発展(継続的なインフラ拡張)の両立を目指す画期的な取組みとして国際的にも注目されている。その成否や教訓は、他地域における今後の生物多様性保全・増進および開発政策に大きな影響を与え、類似政策の採否にも波及する可能性が高い。すでに、イギリス国内ではスコットランド、ウェールズ33、国外ではスウェーデン、シンガポールが同様の制度を検討し始めているとされる34 35

しかし現段階では、この政策は意図したようには機能していない。例えば環境保護団体は、10%のBNGを生物多様性の純減を防ぐための最小限の対策と認識しており、民間資金の動員手段としては評価しつつも、根本的な問題解決策たり得ないと指摘している。他方、現状のBNGは自然保護に偏重しており、開発の促進が不足しているとの指摘もある36。イギリスの現状を見ると、効果的に保全されているのは陸域の3%未満、海域の8%未満に留まっており、保全の取組みは目標に大きく及ばない。このような背景から、シンクタンクの公共政策研究所(IPPR)は、KM-GBFの代表的な目標である30by30(2030年までに陸と海の30%以上を保全すること)達成の困難さを指摘し、追加政策の緊急性を強調している37。BNGが果たすべき自然保全・増進と開発の適正バランスについては引き続き検討が求められよう。

BNGの発展には、制度と技術の両面からのアプローチが必要である。制度面では、生物多様性の正確な評価・測定方法の改善、LPAの能力強化、長期的なモニタリング体制の確立が重要となる。同時に、AIや衛星画像をはじめとする技術革新によるコスト削減や効率化、広域化の進展も欠かせない。制度改善と技術革新の相乗効果により、BNGはより効果的かつ効率的な制度となり、真の意味でのネイチャーポジティブの実現に貢献することが期待される。

イギリスでは、2024年7月に14年ぶりに政権が交代した。労働党新政権は自然・生物多様性の回復に向けた取組みを強化する姿勢を示しており、保守党政権が創設したBNG制度を堅持・強化するものと予想される38。BNGの成否は、ネイチャーポジティブを目指す世界的な取組みはもちろんのこと、気候変動対策や持続可能な都市開発など、他の環境関連政策にも応用できる貴重な知見をもたらすと考えられる。日本企業にとっても、BNGの動向は、今後の環境関連規制や新たな事業機会を予測するうえで重要な参考事例となるであろう。
 

 

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