イギリスは、生物多様性を開発前より10%以上増加させるよう開発事業者に義務付ける生物多様性ネットゲイン(BNG)を国レベルで初めて法制化し、2024年2月以降順次施行している。本稿では、BNG制度の背景・経緯・概要・意義等を概説する。2022年に採択された昆明・モントリオール生物多様性枠組のもと、世界がネイチャーポジティブへの転換を求められる中で、BNGが環境・開発計画政策の世界標準となる可能性や、自然市場をはじめとする新たな経済活動の創出につながる可能性がある取組みとしてその動向が注目されている。半面、制度設計は複雑であり、実施コストや人材不足といった課題もある。
次稿では、BNGに期待されるビジネス機会や、BNGが抱える課題について取り上げる。
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1.はじめに
イギリスは、生物多様性ネットゲイン(Biodiversity Net Gain:BNG)と呼ばれる開発・土地管理規制を世界に先駆けて導入した。イギリスの開発計画制度においてここ数十年間で最大の変更とされる1。
BNGは、イングランド2における住宅・商業・工業地の開発計画に対し、生物多様性を開発前と比較して最低10%増加させるよう義務付ける。これにより、新規開発は自然に対し中立であるだけでなく、自然を積極的に創出・強化することが法的に求められる3≪図表1≫。2024年2月以降順次施行されており、開発事業者(デベロッパー)や建設会社など、計画許可が必要な開発を行うすべての企業に影響が及ぶ。ネイチャーポジティブ(自然再興)達成に向けた世界標準要件となる、あるいはイギリス国内に大規模なオフセット用生物多様性クレジット市場を創出する可能性がある4先進的取組みとして、国際的にも注目されている5。
本稿では、本制度の導入経緯や概要、効果・意義などを概説する。
2.ネイチャーポジティブの潮流とBNGの導入経緯
(1)国際社会におけるイギリスの先導的役割と国内の生物多様性危機
ネイチャーポジティブとは一般に、「生物多様性の損失を止め、反転させること」を指す。
2022年12月の生物多様性条約第15回締約国会議(CBD-COP15)では、生物多様性に関する新たな世界目標である昆明・モントリオール生物多様性枠組(KM-GBF)が採択された。KM-GBFには、2050年ビジョン(自然との共生)の達成に向けた短期目標として、2030年までに自然を回復軌道に乗せるべく、生物多様性の損失を止め、反転させるための緊急の行動をとるネイチャーポジティブの考え方が盛り込まれた≪図表2≫。
イギリスはこれに先立ち、自身が議長国を務めた2021年6月のG7サミットで、「2030年自然協約」の採択を主導した。G7各国は、2030年までのネイチャーポジティブ達成や、その手段としての30by30(2030年までに陸と海の30%以上を保全すること)の実施を宣言した6。
国際社会で欧州勢を牽引する積極的役割を演じる一方、イギリスでは近年、自然・生物多様性が急速に失われている。ロンドン自然史博物館は2020年に、イギリスにおける生物多様性の喪失率は、西ヨーロッパ諸国でほぼ最大であり、G7の中でも最多であるとの調査結果を公表した7。また、2023年9月公表の「State of Nature」報告書は、イギリスは現在世界で最も自然が枯渇した国のひとつであると指摘した。生物多様性と野生生物は減少を続け、1970年代以降野生生物種の平均生息数が19%減少し、6種に1種が絶滅の危機に瀕している8。
(2)BNGの導入経緯と政策的背景
国内でこうした状況に陥りつつも、イギリス政府も対策に向けて種は撒いていた。2018年1月に公表された「25か年環境計画」では、1世代以内に環境を改善し、よりよい状態で残すというネイチャーポジティブに通じる目標を定めた9。同年12月にはBNGに関する市中協議を実施し10、翌年3月には、その義務化方針を公表している11。つまり、BNGの構想は少なくとも2018年に遡る。
2030年自然協約の採択から5か月後、2021年11月には2021年環境法を施行した。大気質・生物多様性・水・廃棄物の4つの優先分野における自然環境回復の法定目標を制定し、2030年末までに種の減少を食い止めるという包括的な目標を掲げた12。BNGの義務化は、2021年環境法の主要な構成要素であり、自然環境保護においてイギリス史上最も重要な法律のひとつに数えられる13。
2023年1月には25か年環境計画の改訂版となる「2023年環境改善計画」において、その目標を格上げし、生物多様性の減少に歯止めをかけ、植物と野生生物の繁栄を達成することを「頂点」の目標とした。また、この目標に対し政府が「さらなる前進」を遂げる方法のひとつとして、BNGの法定実施を強調している14。従って、BNG義務の施行により、25か年環境計画の野心の実現に近付いたことになる15。
また、BNGの導入は、イギリスが直面する二大課題、すなわち、深刻化する生物多様性の喪失と、住宅不足に代表される開発圧力の増大に対応するものである。建設や開発は生物多様性に大きな悪影響をもたらす可能性がある一方で、イギリスは住宅危機に見舞われており、住宅の増加は急務となっている。加えて、都市化の急速な進展に伴い、都市成長の需要を満たしながら環境保全を実現しなければならないという岐路に立っている16。
BNGの義務化は、自然回復の重点を公共セクターから民間セクターに移すことにより17、都市化を取り込みつつ、ネイチャーポジティブを実現する解決策のひとつである18。政府による影響評価では、設計どおりに機能すれば、生物多様性が文字どおり純増するか、少なくとも純減はしないと予想される19。開発を止めたり、自然を劣化させ続けたりすることなく、生物多様性に影響を与える人間活動を是認するために極めて重要な規制であり20、2030年までに種の減少を食い止めるという政府公約実現の一助となることが期待されている21。
なお、BNGの義務化に先立ち、2020年から2023年まで、生物多様性クレジットに係る40以上の法定パイロットプロジェクトが実施された22。これにより、BNGは①生物多様性への好影響、②プロジェクトへの付加価値、③利害関係者との関係強化、④企業イメージ向上、⑤リスク低減―に効果があることが確認されている23。
≪図表3≫に、こうしたネイチャーポジティブとBNGをめぐるイギリス国内外の動向を整理した。
3.BNGのルール
(1)BNGとは
改めてBNGとは、開発事業者が開発許可申請書の一部として、開発予定地の生物多様性の純増を証明するよう求められる原則のことである。生物多様性を開発前より「測定可能なほど良好な状態」に保全・強化することを目指す。
BNGは、新規開発と生物多様性保全の相互関係を根本的に変えることを目的としており、1990年都市農村計画法に基づく許可を必要とする、ほぼすべての開発計画に適用される24。
2024年2月12日から大規模開発で、同年4月2日から小規模開発でそれぞれ義務化され≪図表4≫、2025年11月には発電所・道路・港湾など「国家的重要インフラプロジェクト(NSIP)」への適用も予定されている25。これにより開発事業者は、一部の例外を除き、開発計画において開発前より生物多様性を最低10%増加させ、少なくとも30年間維持することが求められる。また、BNG要件が適用される開発プロジェクトには、その実現方法を説明する「生物多様性ゲイン計画」の作成が求められ、地方計画当局(LPA)の正式な事前承認が必要となる。大規模開発では年間10万件以上、小規模開発では月間3万件以上の許可申請に影響が及ぶ可能性がある26。
BNGの概念自体は、政策的にも生態学的にも新しいものではない。イギリスでは既に10%のBNG要件を地域計画や基本戦略に盛り込んでいる自治体もあり、その実現に向けた戦略を実施している企業も多いとされる。しかし、強制的な制度の下で標準的な10%のBNGが導入されたことで、より多くの企業が、これを実現・維持する最善の方法を検討しなければならなくなった27。
なお、州や地域レベルでBNGを義務化した例はあるが、国レベルでの導入は初である28。また、BNGは単なるオフセット制度に留まるものではなく、その適用範囲も広い。他のオフセット制度では多数の適応除外がある、あるいは特定の影響のみを対象とする一方、イギリスにおけるBNGはすべての新規建設に対応し、またすべての自然の生息地(以下「ハビタット29」)を対象としている点で先進的とされる30。
(2)生物多様性の計算方法
BNGは、標準化された「法定生物多様性指標」により開発前(生物多様性のベースライン)・後の生物多様性価値を比較して定量的に測定される。
法定生物多様性指標は、生物多様性価値の代理としてハビタット(草地・生垣・湖・森林・水路など)を使用し31、ハビタットの規模・質・場所・種類などを「生物多様性ユニット」としてスコア化する≪図表5≫。このユニット値がBNGの定量的評価・測定の基礎単位となり、湿地など生態学的重要性が相対的に高いハビタットカテゴリーは割り当てられるユニット値も高い32。
生物多様性ユニットは、開発で失われることも、ハビタットの創出・強化で生まれることもあり、開発後には、このユニット値が少なくとも10%純増しなければならない≪図表6≫。
こうした計算には、生態学者等専門家の監修のもと政府が提供する計算ツール(エクセルファイル形式)33の使用が求められるが、小規模開発の場合は監修が免除され、別途用意された簡易版の計算ツール34も利用できる。
なお、生物多様性ユニットには、①エリア(面積的)ハビタットユニット(草地・森林・干潟等)、②直線的生垣ユニット、③直線的水路ユニットの3種類がある。10%のBNG要件は各タイプのユニットに適用され、異なるタイプ間で移行できないため、実際には開発地内に存在するすべてのタイプについて、最低10%の純増をそれぞれ達成しなければならない。例えば、開発が水路(河川など)の生物多様性に悪影響を及ぼす場合、近隣の森林の生物多様性を強化する対策では不十分である。
また、ひとたび破壊されると再生・復元・置換が技術的に困難、あるいはこれに時間がかかる貴重なハビタットにおける損失や劣化は法定生物多様性指標では十分に把握できないことが認識されている。このため、BNG制度では、こうしたハビタットを「代替不能ハビタット」として別途定義しており、開発地に含まれる場合、生物多様性ゲイン計画の内容と承認に特別条項が適用される。
(3)生物多様性ゲインヒエラルキー
BNG達成には、「生物多様性ゲインヒエラルキー」と呼ばれる優先順位を適用しなければならない35。前提として、法定生物多様性指標(ベースラインユニット値)が一定値を超える開発地のハビタットでは、まず開発による悪影響を回避し、不可能な場合はそれを緩和することが求められる。そのうえで、具体的なBNGオプションである①開発地(オンサイト)でのハビタット創出・強化、②難しい場合はそれ以外の場所(オフサイト)での実施(所有地でのBNG実現または市場でのオフサイト生物多様性ユニット購入)、③最後の手段として政府からの法定生物多様性クレジット36の購入―の順で対策を講じるよう定めている37≪図表7≫。
開発地内や近接地におけるハビタットの創出・強化にインセンティブを与えるため、「空間リスク乗数(SRM)」によって、開発地から離れた場所で提供されるハビタットの生物多様性ユニットは減価される(同一自治体内のオフサイト生物多様性ユニットは等倍、隣接自治体のオフサイト生物多様性ユニットは0.75倍、その他の場所のオフサイト生物多様性ユニットは0.5倍)38 39。また、オフサイトでの生物多様性改善場所を示し、同一ユニットが複数の開発に割り当てられることによるダブルカウントを防止するため、オフサイトでのBNGはすべて「生物多様性ゲインサイト登録簿」への記録を求められる。虚偽または誤解を招くような記載には反則金も科される。
なお、整地でBNGのベースライン値を意図的に低下させる(開発前の生物多様性価値を人為的に下げてBNG達成を容易にする)といった行為を防ぐため、2021年環境法には、2020年1月以降にその土地で行われたハビタットの劣化や破壊を考慮し、それ以前のハビタットの状態をベースラインとすることを地方計画当局に認める措置が盛り込まれている40。
(4)実現手段と実施例
BNG達成のための具体的対策は多岐にわたり、草原・牧草地・野草園・湿地・果樹園などのハビタット専用エリアの造成といった大規模なものから、鳥の巣箱、ミツバチの営巣用レンガ、野生生物(ハリネズミなど)の通り道の設置といった小規模なものまで含まれる。また、屋上緑化・壁面緑化・地中熱ヒートポンプ・堆肥化エリア・雨水回収(持続可能な排水システム)などのインフラを導入することで、構築環境(人工的環境)の建設自体でもBNGを達成できる41 42。開発事業者にとってはBNGを同時に促進できる開発用地の確保が主な課題となるが、屋上緑化等の景観設計や生態学的知識を取り入れた設計は、この制約を緩和する。≪図表8≫には都市型BNGの実施事例を示した。
なお、開発事業者による、ブラウンフィールド(工業用地や公共施設などかつて使用されていたが、再開発されず遺棄された状態の土地や建物)への初動対応は屋上緑化の導入になると予想されている。その後、湿地帯や景観向上、生垣と緑の回廊43の導入といったより大規模な再野生化がいたるところで行われるようになるとみられる44。
4.オフサイト生物多様性ユニットと法定生物多様性クレジット価格の動向
生物多様性ユニットは公式生物多様性指標の「通貨」として機能し、土地所有者に新たな機会と収入源をもたらす45。例えば自然回復資産管理会社のEnvironment Bankは、全国で6,000エーカー(約2,428ha)以上のハビタット造成を進め、開発事業者にオフサイト生物多様性ユニットを提供している46≪図表9≫。
オフサイト生物多様性ユニットを購入する場合、市場で利用可能なものを探す必要があるが、前記の「生物多様性ゲインサイト登録簿」は売手と買手をつなぐマッチングサービスではなく、連絡先も記載されていないため、当事者は民間市場を通じてお互いを見つけることになる。最も一般的な方法は、ブローカーや仲介事業者を通じて売買する方法である47。
ただ、現時点ではまだ需給が噛み合っていない。ロンドンを拠点とするオンラインマーケットプレイスのGaiaは、2万5,000ユニット以上のオフサイト生物多様性ユニットを1ユニットあたり平均約3万ポンドで掲載しているが、需要は伸び悩んでいる≪図表10≫。市場規模がどの程度になるかは不明だが、BNG義務化後の開発許可第一波となる2024年8月頃にオフサイト生物多様性ユニット需要が生じ始め、2025年には需要が高まり、価格体系が明確になるとの見方が一般的となっている。ユニットあたり2万5,000ポンド、あるいは2万から2万2,000ポンドが本制度存続の採算ラインになると予想されている48。
最後の手段である法定生物多様性クレジットの価格は、少なくともオフサイト生物多様性ユニット価格の上限を形成する。政府は、法定生物多様性クレジットの使用を最小限に抑え、民間の生物多様性オフセット市場の成長を促すため、オフサイト生物多様性ユニット制度と競合しないよう、法定生物多様性クレジット価格を市場における同等のオフサイト生物多様性ユニット価格よりも意図的に高く、魅力のない水準に設定している(失われるハビタットの希少性に応じ、ユニットあたり最低8万4,000ポンドから最高130万ポンド49)。
なお、政府は法定生物多様性クレジットのコストを見積もるツールも公表している50。
《BOX》 生物多様性クレジット制度と自然市場 「生物多様性クレジット」とは、生物多様性保全への経済的インセンティブを生むため、動植物やハビタットに金銭的価値をつける市場ベースの戦略を指す。これにより生態学的価値を金銭で売買可能となる。この価値は科学的に合意されたものである必要があるため、クレジットは取引・追跡可能でなければならない。
生物多様性クレジットは、新たなハビタットの創出や、既存のハビタットの損失防止といった積極的行動の「単位」を表し、土地所有者や開発事業者は、生物多様性への取組みに比例した割合でクレジットを獲得する。こうしたクレジットを購入した企業は、自社の活動が環境に与える悪影響をオフセットできる
51。収益化によって保全活動への投資を促すと同時に、生態系の損失・劣化コストが明確になり、開発プロジェクトにおける持続可能な慣行に向けた集団的取組みが促される。
世界経済フォーラム(WEF)は、自然を評価する根本的な変革が起これば、生物多様性クレジットの需要は最大で2030年までに年間70億ドル、2050年までに年間1,800億ドルに達する可能性があると推定している
52。
一方で「自然市場」とは、人々が生態系に関連した商品やサービスを売買することを指し、取引はクレジットで行われる。多くの政府は、困窮しがちな自然再生の資金繰りを民間資金が支援することを期待しているため、自然市場の創設に熱心である。ただし、自然市場が自然再生資金を生むのに有用と考える向きもあれば、自然の値付け・商品化に批判的な見方もある
53 54。
KM-GBFの採択以降、自然市場の一部である生物多様性クレジット市場への注目は高まっており
55、自然に対する資金調達ギャップを埋めようとするプロジェクトが数多く発表されているものの、炭素市場に比べ教育や認識が不足しているため企業ニーズは高まっておらず、実際の取引はまだほとんど行われていない。こうした中で、BNGは民間資金を自然再生に投入する市場を結晶化したものと言える。年間1億3,500万ポンドから2億7,400万ポンド相当と推定される生物多様性クレジット市場を生み出し、BNGの適用地域であるイングランドにおいて自然保護のための資金を大幅に増加させると期待されている
56(BNG制度におけるオフサイト生物多様性ユニットは生物多様性クレジットの一種であるが、法定生物多様性クレジットとの混同を避けるため、呼称が区別される)。
なお、BNGのほか、ドイツや米国、オーストラリアも生物多様性取引の枠組みを確立している≪図表11≫。
5.BNGに期待される効果と意義
BNGに期待される効果は、大きく以下の3点に集約される57。
① 環境貢献(BNGに基づくハビタットの創出・種の保護・生態系の回復による生物多様性の増加)
② 社会経済的利益(自然保護関連活動による雇用機会の提供、環境改善による価格や資産価値の向上、緑地へのアクセスによる健康やウェルビーイングの向上)
③ 気候変動緩和(生物多様性の保全・回復による炭素隔離、局所的な気候調節、レジリエンスの強化)
例えば上記①と③については、BNGにより年間5,699haの新たなハビタット創出と1万85haの既存生態系の劣化回避で、計1万5,000ha以上(サッカーピッチ約2万3,500面分)の緑地確保に相当する生物多様性を有する景観が得られると推計されている。そしてこの自然ハビタットは、毎年最大65万トンの二酸化炭素(ロンドンからニューヨークへの往復便約20万回分に相当)を吸収する可能性がある58。
また、特筆すべき意義として、生物多様性に関する共通尺度の提供について触れておきたい。
BNGの目的には、開発事業者によるハビタット創出・強化の標準的慣行を確立するとの側面もある。一部の開発事業者は、特に自社のESG行動計画上環境改善の必要性を認識し、自主的にBNGを実施してきた。ただし生物多様性指標は多岐にわたるうえ、ハビタットに関する期待や要件は地域によって異なるため、その取組みを効果的に追跡・測定する手段がなかった。
その点法定生物多様性指標は、生物多様性とハビタットの増加を定量化する、標準化された制度を提供するよう設計されている。都市部の屋上緑化や壁面緑化から、高地や沿岸部の高品質なハビタットに至るまで、あらゆる種類のハビタットで使用され、利用可能なデータと科学的知見によって値が決定される。BNG達成、ひいては開発許可申請にどの程度失敗する可能性があるかを想定するリスク要因も含まれる。BNGの法定により、土地所有者・建設会社・生態学者など、開発に関わるすべての関係者が、同一の評価基準で生物多様性の向上(動植物種の全体的な多様性と豊富さ、そしてこれら動植物種の生存に必要な生息環境の増加・改善)を確認することになる。これにより、開発事業者自身はもとより、計画当局にも開発事業者の活動の測定・追跡手段が提供され、土地所有者には生物多様性の増加に注力するインセンティブが与えられる59。
6.小括
本稿では、イギリスで2024年2月から開発事業者に順次義務付けられたBNGの経緯や概要、効果・意義を概観した。
WEFによると、都市化の急速な拡大で、建造環境(人工的環境)は生物多様性喪失の約3割に対し責任を負っている60。開発セクターが生物多様性を保護・促進できれば、世界全体と建造環境内の産業・活動の双方に無数の好影響をもたらし、経済発展と環境保護の調和につながる。BNGは、開発の必要性と自然回復の喫緊の必要性を結びつけ、イングランドにおけるハビタットと自然回復への需要を喚起する旗艦的な取組みである。生物多様性の強化は政府機関や自然保護団体のみならず、すべてのセクターにとっての責任と機会となり、民間セクターによる貢献のポテンシャルを解放することになる。
また、BNGは汚染者負担原則(PPP)(環境汚染防止・回復のコストは原因となる汚染者が支払うべきとの考え)に沿うものとみなされており61、環境への意識と責任を高め、社会が生態系への損害のコストを負担するための公平性を生み出す一助ともなる62。
まとめると、BNGは①環境保護と経済発展の両立、②民間セクターの環境保全への積極的参加の促進、③生物多様性に関する共通尺度(生物多様性の価値に係る判断基準)の確立において重要な意義を持ち、今後の環境政策のモデルケースとなる可能性を秘めている。
とはいえ、BNGにも懸念や課題はある。先駆的な取組みとして歓迎される一方で、自然回復地区での建築奨励、生態系への深刻なリスク、市場インフラの根本的なギャップを指摘する声など、2023年来多くの問題に直面してきた。
次稿では、BNGが抱える課題や、BNGにより生まれることが期待されるビジネス機会について掘り下げる。
- Natural England, “Get ready for new Biodiversity Net Gain legislation”(2024.2)ほか
- イギリスの地方行政区分は、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドからなる。後述の2021年環境法は、別表14により、BNGの規定がイングランドにのみ適用されることを規定している。
- CMS Law-Now, “Biodiversity Net Gain comes into force – what does it mean for you?”(2024.2)
- 生物多様性オフセットとは、開発による生物多様性(生息地)の損失を別の場所における創出・強化で補う(相殺する)という考え方を指す。生物多様性クレジット市場については後掲≪BOX≫を参照願う。
- Thomas Cox, “UK biodiversity net gain could “incentivise” building in nature recovery areas”(Carbon Pulse, 2024.1)
- Defra et al., “Government sets out commitments to biodiversity and sustainability in G7 Nature Compact”(2021.6)
- Josh Davis, “UK has ‘led the world’ in destroying the natural environment”(The Natural History Museum, 2020.9)
- State of Nature, “State of Nature Report 2023”(2023.9)
- HM Government, “A Green Future: Our 25 Year Plan to Improve the Environment”(2018.1)
- Defra, “Net gain Consultation proposals”(2018.12)
- HM Treasury, “Spring Statement 2019: what you need to know”(2019.3)
- legislation.gov.uk, “Environment Act 2021”(2021.11)
- 2021年環境法は、環境保護団体による数十年間にわたるキャンペーンを経て成立し、イギリスに国立公園制度を導入した「1949年国立公園・田園地域アクセス法」や、生息地と種の保護を目的とする「1981年野生生物・田園地域法」に比肩するとされる(Richard Broadbent, “Mandatory BNG is finally here…why is today important?”(Freeths, 2024.2))。
- HM Government, “Environmental Improvement Plan 2023”(2023.1)
- Andrew Morgan, “Mandatory BNG marks a new era of environmental regulations for planning”(DAC Beachcroft, 2024.4)
- Tara Garraty, “The impact of biodiversity net gain regulations on housing developments”(Inside Housing, 2024.2)
- 2021年環境法施行以前にも他の法律や政策では計画申請を審査する際に生物多様性を保全・強化する義務が自治体に課せられていたが、BNG義務は事業者に生物多様性要件を事実上付与することによりこれを大幅に強化する。
- このほかイギリスでは2024年以降、一部海域での漁業禁止や泥炭土壌改善、国立・国定公園における自然回復強化、自然再生プロジェクトに対する企業寄付プログラム「Projects for Nature」実施といったネイチャーポジティブ推進策を次々に実施している。
- Defra, “Biodiversity net gain and local nature recovery strategies: impact assessment”(2019.10)
- 前掲注16
- Defra, “New housing developments to deliver nature boost in landmark move”(2024.2)
- Natural England, “Biodiversity Net Gain – land management lessons from our pilots (BNG1123)”(2023.11)
- เพชร มโนปวิตร, “Biodiversity Net Gain: เมื่อการเพิ่มความหลากหลายทางชีวภาพกลายเป็นกฎหมาย”(The 101. World, 2024.4)
- 具体的には、前述の2021年環境法等による改正の適用で1990年都市農村計画法に新規挿入された別表7AがBNG義務の詳細を規定する。なお、1990年都市農村計画法は、2023年レベルアップ・再生法、2024年生物多様性ゲイン規則による改正も受けている。
- 政府最大のオフィス物件保有者である政府財産庁(GPA)も、同庁が管理する公共施設におけるBNG要件遵守を明確化するガイダンスを2024年3月に公表している(GPA, “Biodiversity and Nature Recovery Annex: Version 4.0”(2024.3))。
- Tamsin Sahota, “Biodiversity – Gains for nature and investors alike”(Ropes & Gray, 2024.4)、Sarah George, “UK’s Biodiversity Net Gain requirements expanded”(edie, 2024.4)
- Osborne Clarke, “What do businesses need to understand about the UK biodiversity net gain regime?”(2024.2)ほか
- National Audit Office, “Implementing statutory biodiversity net gain”(2024.5)
- habitatは生息地と訳されるが、通常現状の生息場所のみを連想する日本語とは概念がやや異なり、個々の生物種の生息に本来必要または適した環境を有する場所や空間を指す。
- The Guardian, “England brings in biodiversity rules to force builders to compensate for loss of nature”(2024.2)
- 生息する生物種の種類や個体群数等を測定して生物多様性価値とするものではない。
- ハビタットは詳細に分類される。ハビタットの種類と特筆すべき特徴に基づく尺度であり重要性を表す「識別性」は、ハビタットの希少性やハビタット内の種の豊富さなど、様々な生態学的要因を測定する。また、ハビタットの種類は、草地や湿地といった大まかな区分(前掲≪図表5≫でいう「ハビタットカテゴリー」)と、伝統的な果樹園や葦原など、より詳細な区分(同「種類」)の2段階が設けられている。
- Natural England, “The Statutory Biodiversity Metric Calculation Tool”(2023.12)
- Natural England, “Small Sites Metric”(2024.2)
- 代替不能ハビタットには適用されない。
- クレジットは前記の法定パイロットにより生成されている。
- なお、BNGは既存の自然保護・強化制度に上乗せされる。開発計画には従来、まず開発により生じる生物多様性の損失を回避し、次に低減・緩和し、最後の手段としてのみ損失を補償する、という「回避→低減→緩和→補償」に基づく「ミティゲーション(緩和)ヒエラルキー」が別途存在し、BNGはこれに完全に従って初めて適用される。ミティゲーションヒエラルキーの考え方は生物多様性ゲインヒエラルキー自体にも一部重複する形で取り入れられており、3つのBNG達成オプションは、ミティゲーションヒエラルキーでいう「補償」以降の段階にあたる。
- 前掲注3
- オンサイトでの増加は「重要」であるべきとの考え方が2021年法に盛り込まれており、その要素が大きい開発許可申請については、オフサイトのBNGを使用する申請よりも、地方自治体がかなり好意的に審査する可能性が高いと言われている。ただし、小規模開発では必要となるユニット数が少ないため、ほとんどの場合オフサイトでのBNG実施の方がはるかに効率的となる可能性が指摘されている。
- オンサイトのハビタットが、調査や開発許可申請書の提出前に破壊されまたは劣化していた場合、法定生物多様性指標の目的に鑑みてそれ以前の状態がベースラインとされる。さらに予防措置として当該区域に「良好」の状態スコアが割り当てられる。
- Travers Smith, “Biodiversity net gain FAQs”(2024.5)、Rebecca Standing, “BNG requirements are trickling into force, but what’s the best approach?”(Farrer & Co, 2024.5)
- グリーンインフラや持続可能な排水等、他の法的義務や政策に準拠するために実施されるハビタットの創出・強化もBNGへの算入が認められている(Defra, “Guidance: What you can count towards a development’s biodiversity net gain”(2024.3))。
- 野生生物のハビタット間を結ぶ、野生生物の移動に配慮した連続性のある森林や緑地などの空間を指す。生態系ネットワークとも呼ぶ。
- Anna Highfield, “Biodiversity laws come into force for all major developments”(Architects’ Journal, 2024.2)
- オフサイト生物多様性ユニットは、「改変された草地の1ユニットは○ポンドである」といった形で販売できる。土地所有者がBNGを供給するために地所に投資し、市場で販売することを選択した場合、これはハビタットバンクと呼ばれる。
- 同社は2020年以来BNGの法制化に向け準備しており、現在ではイングランドで最も広範なハビタットバンクネットワークを提供している。なお、イギリスにBNGの概念を持ち込んだのは同社創業者のデイビッド・ヒル教授である。
- 具体的には、①地主、②ハビタットバンク運営会社、③ブローカー、④取引プラットフォーム、⑤地方計画当局(LPA)などから、またはなどを介して購入する方法がある。
- 前掲≪図表10≫出典ほか
- クレジット単価は4万2,000ポンドから65万ポンドだが、法定生物多様性クレジットの購入にはSRMが適用され、1ユニット分のオフセットには2クレジット必要なため、ユニットあたりクレジット価格はその倍となる。
- イギリス政府ウェブサイト「Estimate the cost of statutory biodiversity credits」(visited Jul. 22nd, 2024)
- ただし、生物多様性オフセットは避けることのできない被害を補償するものと考えられており、科学者は、回避・緩和・回復のすべてが試みられて初めて最後の手段として使用されるべきと主張している。前掲注37も参照願う。
- WEF, “Biodiversity Credits: Demand Analysis and Market Outlook”(2023.12)
- 前掲注30ほか
- 世界に遍在し、比較可能な共通測定単位(t-CO₂e)に基づき発生地と吸収地を問わず排出をオフセット可能な炭素クレジットとは異なり、局地性が強く段違いに複雑な生物多様性ではクレジットによるオフセットは成立せず、オフセット目的の生物多様性クレジットはあくまで過渡的措置と見る向きもある。例えば昨年EUでは持続可能な経済活動を分類するEUタクソノミーに生物多様性オフセットの要素を盛り込む動きがあり、環境目標に対する「実質的な貢献とはなり得ない」との批判を浴び除外された。
- KM-GBFでは、資金動員に係る目標であるターゲット19で生物多様性オフセットとクレジットを「革新的スキーム」として挙げており、WEFや国連環境計画・金融イニシアティブ(UNEP FI)も生物多様性クレジット市場に係る検討を活発化させている。
- Defra, “Nature Markets Framework progress update March 2024”(2024.3)
- Anamta shehzadi, “Biodiversity Net Gain: Significance, Principles, Execution, and Advantages”(Vents Magazine, 2024.4)
- いずれも政府が2020年代半ばまでに目標とする、毎年30万戸の住宅建設が達成された場合の推計である(Building, Design & Construction Magazine, “New research shows Biodiversity Net Gain could absorb up to 650,000 tonnes of CO2 annually”(2024.3)ほか)。
- Marsh, “UK biodiversity net gain legislation presents risks and opportunities”(2024.5)
- WEF, “New Nature Economy Report II: The Future of Nature and Business”(2020.7)
- 前掲注23、The Nature Conservancy, “Biodiversity Net Gain in England: Developing Eective Market Mechanisms”(2021.10)ほか
- 効果的な汚染者負担原則メカニズムの他の例としては、前掲≪図表11≫のドイツの影響緩和規制や、米国の湿地補償緩和規則(開発活動が湿地に与える不可避な悪影響のオフセットを目的とする)などが挙げられる。