仮想現実体験による認知症治療の可能性
1.はじめに
高齢化が進展する日本では認知症高齢者の増加が予想されており、2025年には65歳以上の高齢者の約5人に1人、約700万人にまで達すると見込まれている1。厚生労働省は「認知症施策推進総合戦略(新オレンジプラン)」を策定し、「認知症の人を含む高齢者にやさしい地域づくりの推進」や「認知症の予防法、診断法、治療法、リハビリテーションモデル、介護モデル等の研究開発及びその成果の普及の推進」などを重視している2。
認知症高齢者への対応は、日本のみならず世界各国に共通する課題である。2022年8月に開催された国際アルツハイマー病協会の国際会議においても、「アルツハイマー病やその他すべての認知症がない世界という協会のビジョンを達成するには、様々な治療を促進し、支援することが不可欠である」と提言された3。
そもそも認知症とは脳の病気や障害など様々な原因により、認知機能が低下し日常生活全般に支障が出てくる状態を指し、その原因は複数ある。最も多いのがアルツハイマー型認知症だが、以前から根本的な治療法がなく、その治療方法を開発することは長年の課題である。
このような中で昨年、エーザイとバイオジェンが開発したアルツハイマー病の治療薬(アデュカヌマブ)が米国で承認された。疾患の原因となる物質の除去を狙った改善型治療薬として注目を集めたが、承認されてから1年以上経過したものの効果不十分として高齢者向けの連邦医療保険プログラム(メディケア)には適用されず、普及がなかなか進んでいない。また、欧州では昨年末、欧州医薬品庁によってアデュカヌマブは承認すべきではないとの判断が示された。日本でもエーザイがアデュカヌマブの製造販売承認申請を行ったが、有効性の判断が困難とのことから追加データの提出を要請され、厚生労働省で継続審議中となっている。エーザイは別の新薬に経営資源を集中させる4など、治療薬の開発は難航している5。
2.新しい技術を活用した認知症治療
(1)仮想現実ビジネスの普及
認知症治療に関しては、治療薬の開発以外にも色々な取組が行われてきた。そうした取組の一つが新しいデジタル技術を活用し、脳機能に変化を起こし、記憶の回復、改善をはかるものである。近年、技術革新の進歩は目覚ましく、新技術の一つである仮想現実(VR:Virtual Reality)が様々な分野で活用されている。
VRとは、CGで作られた世界や360度動画等の実写映像を「あたかもその場所に居るかのような没入感」で体感ができる技術6のことを言う。Fortune Business Insightsによると、VRは現在、小売、ヘルスケア、自動車、ゲーム、エンターテインメントなどの産業で利用され、その世界市場規模は2021年に116.4億ドルと評価されたが、その後、年平均成長率45.2%で伸び続け、2029年には2273.4億米ドルまで達すると予想されている7。
(2)仮想現実体験により脳機能活性化をはかる試み
仮想現実を体験することによって、脳機能を活性化させようとする試みは過去から行われてきた。例えばオランダで2014年から2015年にかけて行われた調査では、18~65歳の精神障害がある患者を無作為に116人抽出し、待機リストへ割り当てられた対象者を除く58人に対してVRによる認知行動療法を実施した。本事例ではそれぞれ1時間単位で16の治療を行い、6か月経過後の治療後評価において、瞬間的な妄想観念や一時的な不安が減少し、その後の追跡調査でも改善効果が維持されたと評価している。VRによる治療を標準治療に加えることで、精神障害のある患者の妄想観念と一時的な不安を軽減できることを示唆するものとする8。精神疾患と認知症は異なる疾患であるが、ともに脳への刺激が低下しているなどの状態が一因と考えられており、脳機能の活性化によって改善の可能性がある。
また、トロント大学の附属病院Baycrest Health Sciencesの研究担当副社長であるAllison Sekuler氏は、「VRを体験していると、電話で話を聞いたり画面を見たりするのと対比して、実際に脳機能に変化がある9。」と述べている。
このような過去からの調査研究を経て、近年、VR機器を取り巻く民間事業者による新たな取組が行われており、最新事例をもとに VR体験を活用した認知症治療の取組を紹介する。
(3)仮想現実体験を活用した認知症治療の新しい取組
①英国Virtue Health社の事例
Virtue Health社はオックスフォード大学出身の研究者によって創業されたスタートアップ企業で、デジタルツールを活用した健康への新しいアプローチにより、医療の質、アウトカム、価値を向上し、すべての人がより長くより良い生活を送れるよう支援することを目指している。
同社はVRを利用して、認知症患者を支援するデジタル療法プラットフォーム「LookBack」を開発した。LookBackはオックスフォード大学の認知症ケアの専門家と共同開発されたもので、数百人の認知症患者に対してテストが行われ、科学に裏付けられた認知症治療のアプローチに基づくものとされる。
LookBackは、スマートフォンから同社提供のアプリLookBack Care Platformを起動して実 行 す る 。「FAVORITES」や「TOURS」などのメニューがあり、その内容は、認知症患者のニーズに合わせてカスタマイズされたものである≪図表1≫。VR を用いたセラピーでは、記憶を呼び起こすために過去の画像、音楽、映画などを見聞きすることが含まれ、患者を昔のパーティーや海辺のリゾートなどの環境に没頭させることで、記憶を呼び起こす効果に大きく影響を与えるものと考えられている。Virtue Health社の共同創設者であるScott Gorman氏は、「携帯電話が進化し、VRヘッドセットの価格が下がったことにより、まさに今日、この影響力のある治療法へ人々がアクセスできるようになった10。」とコメントしている。
2018年に実施されたLookbackを使用したトライアルの結果、全体の60%がコミュニケーション能力の向上を示し、80%に認知機能への刺激の兆候が見られ、60%に健康状態、落ち着きの改善が見られたとする11。利用者側からのポジティブな感想も見られる。例えば認知症ケア専門施設であるMeadowview Care Homeの臨床責任者であるHelen Partridge氏は、「ほとんどの入居者が過去に過ごした時代の記憶を思い出し、普段より声も大きくなった。多くの者が幸せで笑顔になっていることに気付き、このことが会話を活発にさせた。」と述べている12。
さらに注目すべき点として、英国で公的保険制度を担うNHSがLookbackを使用した認知症治療のトライアルを行っていることが挙げられる13。NHSは2018年より約100の患者を対象に、失われた記憶の回復を支援する取組として、VRを使用した認知症患者による「タイムトラベル」の試験を実施している。NHSのMichael Hurt氏は、「プロジェクトに取り組んでいる何人かは、VRを使用して家族や友人と非常にポジティブな経験をしており、このソフトウェアが幸福感、気分、睡眠などを改善させるかどうか、不安や動揺を軽減するかどうか、認知症で経験する痛みの一部を軽減する可能性があるかどうかを確認したい。」と述べている。
②米国Rendever社の事例
Rendever社は2016年に創設されたスタートアップ企業で、VRとその共有体験によって社会的孤立の克服を目指しており、VR体験によって記憶を呼び起こし、認知症の症状改善をはかる取組を行っている。過去5年間で、米国、カナダ、オーストラリアの400以上の高齢者施設に仮想現実プラットフォームを導入し、100万回を超える VR体験を提供、多くの施設入居者に影響を与えてきた実績を持つ。同社は、TIME 誌による「2022年における最も影響力のある企業100社」にも選定されている。
Rendever 社のプラットフォームでは、カスタマイズされた回想療法ツールを使用し、施設入居者は幼い頃の家、結婚式場など過去の思い出の場所を再び訪れることができる。それにより刺激を受け、忘れられない瞬間と記憶に再び繋がることができるものとされる。同社のプラットフォームを使用した後では、高齢者施設入居者の幸福度が40%向上し14、なかには会話ができるようになった入居者もいるという事例も紹介されている15。また、カリフォルニア大学のNancy Collins博士によると、認知機能に障害のある高齢者に対してRendever社のプラットフォームを使用したところ、信頼の感情が高まり、より社会に参加しようとするようになったとの結果もある16。
プラットフォームでは《図表2》のように「ADVENTURE」、「NATURE」、「ANIMALS」などの様々な体験メニューが用意されており、さらに時節およびリクエストに基づき、隔週で新しい体験テーマがリリースされる。プラットフォームを導入している高齢者施設では、推奨トピックや新しいアクティビティのガイドに関するニュースレターを受け取ることができる。
Rendever社は、米国国立衛生研究所(NIH)や米国国立老化研究所(NIA)から研究資金の援助を受けており、米国の高齢者団体であるAARPと提携するなどの動きが見られ、今後の動向も注目される。
3.おわりに
ここまで、仮想現実空間の体験による認知症治療の実例について見てきた。認知症高齢者のさらなる増加が予想される日本において、その治療の重要性はますます高まる。近年のデジタル技術の進歩は目覚ましくヘルスケア分野での活用も進んでいる。その中で VR機器を利用した取組にも期待がかかるが、VR体験治療には様々な課題もある。VR機器はすべての症状に対応して作られているわけではなく、使用時にサイバー酔い(VRに反応した吐き気、不快感)を感じる患者もいる。VR機器によって目を覆われると不安になり、なぜ頭に機械を縛りつけるのか理解できず着用を拒否することも想定される。療法を行うセラピスト側から見ると、セラピストのニーズに最も適したソフトウェアと機器の選択は容易ではない。また、患者はそれぞれが複雑な問題を抱えており、パーソナライズされた効果的なVR治療を行うには膨大なライブラリが必要だが、すべてに応えることは難しい17。さらにその効果についても、「患者は仮想現実に没入することにより、治療用に作り出された環境とシームレスにやり取りすることが可能となり、これらは臨床研究で確立されたツールになりつつある。しかし、アルツハイマー型認知症の人に受け入れられるかどうか、そのケアに役立つかどうかはまだ明白ではない18。」との指摘があり、治療効果が一律に認められているわけではない。
認知症は、その家族のケアにかかる負担は大きく、症状改善、根本的な治療をすることができれば望ましい。米国で承認された新薬アデュカヌマブが、一時はその特効薬と期待されたものの、その有効性がまだ判断できないなど先行きは見通せない。一方で、デジタル技術の進歩を活用し、VR機器を利用した仮想現実体験により記憶を呼び戻し、認知症治療に役立てようとする取組が行われている。VR治療は、認知症の行動・心理状況 (BPSD) を改善することが臨床的に証明されている既存の治療アプローチをデジタル化し、認知症ケアの強力なツールとなる可能性がある。VR治療によって認知症患者の記憶を呼び起こし、認知症によって引き起こされる不安、動揺、および苦痛を改善した臨床試験の結果もある19。VR体験治療における課題、VR機器の特殊性や操作の難しさはあるものの、VRソフトウェア、ハードウェアの価格は下がり、以前より入手しやすくなっていることから、利用の拡大が期待できる。前述の英米スタートアップ企業のケースでは、すでに公的機関などと提携しながら調査研究を実施しているように、今後、VR体験治療のさらなる調査研究、改善効果の解明によって認知症治療の可能性が広がるかもしれない。根本的な治療薬の開発研究と並行して、VRのような新しい技術の活用によって認知症の症状改善をはかる動きにも注目していきたい。
- 厚生労働省「認知症施策推進総合戦略(新オレンジプラン)の概要(改訂版)」(2017年7月)
- 厚生労働省「『認知症施策推進総合戦略~認知症高齢者等にやさしい地域づくりに向けて~(新オレンジプラン)』について」(2015年1月)
- AAIC(Alzheimer’s Association International Conference)のウェブサイト(visited Aug.26, 2022)<https://aaic.alz.org/releases_2022/overview.asp>
- 日本経済新聞「エーザイの認知症薬、「希望の星」一転 次の薬に集中」(2022年4月4 日)
- エーザイ社のニュースリリース(2022年9月28日付)によると、開発中の認知症新薬レカネマブに関する臨床試験において悪化抑制の結果が示され、2022年度中に米国でのフル承認申請、日本、欧州での販売承認申請を目指すとしている。
- 経済産業省「令和2年度コンテンツ海外展開促進事業(仮想空間の今後の可能性と諸課題に関する調査分析事業)」
- Fortune Business Insights “The global virtual reality market is projected to grow from $16.67 billion in 2022 to $227.34 billion by 2029, at a CAGR of 45.2% in the forecast period 2022-2029” (visited Sep.14, 2022)<https://www.fortunebusinessinsights.com/industry-reports/virtual-reality-market-101378>
- Roos M C A Pot-Kolder , Chris N W Geraets , Wim Veling , Marije van Beilen , Anton B P Staring , Harm J Gijsman , Philippe A E G Delespaul and Mark van der Gaag(2018)”Virtual-reality-based cognitive behavioural therapy versus waiting list control for paranoid ideation and social avoidance in patients with psychotic disorders: a single-blind randomised controlled trial”
- BUSINESS INSIDER” Virtual reality could help ward off Alzheimer’s by making people feel less lonely” (visited Aug.31, 2022)<https://www.businessinsider.com/virtual-reality-alzheimers-dementia-loneliness-2022-3>
- WIRED “For people with dementia, virtual reality can be life-changing”(visited Sep.2, 2022)<https://www.wired.co.uk/article/virtual-reality-dementia-technology>
- Virtue Health 社のウェブサイト(visited Aug.29, 2022)<https://www.virtue.io/lookback-dtx-old/>
- Virtue Health 社のウェブサイト(visited Aug.29, 2022)<https://www.virtue.io/lookback/>
- REUTERS “Britain trials virtual reality time travel to combat dementia”(visited Aug.29, 2022)<https://jp.reuters.com/article/us-tech-dementia-vr-idUSKBN1JT2AO>
- Rendever 社のウェブサイト(visited Aug.31, 2022)<https://www.rendever.com/>
- CNET Japan「VR で認知症患者の記憶をサポート–米スタートアップ Rendever の取り組み」(visited Sep.2, 2022)<https://japan.cnet.com/article/35178400/>
- McKnight’s Long-Term Care News “$2M virtual reality trial to gauge impact on senior living residents with dementia”
- Debra Boeldt, Elizabeth McMahon, Mimi McFaul and Walter Greenleaf(2019)”Using Virtual Reality Exposure Therapy to Enhance Treatment of Anxiety Disorders: Identifying Areas of Clinical Adoption and Potential Obstacles”
- Felix Clay, David Howett, James FitzGerald, Paul Fletcher, Dennis Chan and Annabel Price(2020)”Use of Immersive Virtual Reality in the Assessment and Treatment of Alzheimer’s Disease: A Systematic Review”
- The Academy of International Extended Reality ” How Virtual Reality Can Transform Dementia Care”(visited Sep.14, 2022)
<https://aixr.org/insights/how-virtual-reality-can-transform-dementia-care/>
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